寛延三年(1750)の『播州府辺廿四社巡拝道路之記』には、播陽二十四社の一つに数えられているので、この頃にはすでに播磨地方における主要な神社として位置付けられていたのがわかる。また、天保十年(1839)に酔月亭鷺雪が船場の名所を詠んだ庶民の和歌を選出し、画家の島琴陵道人が風景を描いた『船場八景』の一つに数えられ、船場川沿いの景勝地としても知られている。
宝暦十二年(1762)頃に編纂されたとされる『播磨鑑』には愛宕神社の祭神は軻遇突智命(かぐつちのみこと)とあり、宝暦十年(1760)に編纂された『播陽万宝智恵袋』には火神軻遇突智命(ひのかみかぐつちのみこと)とある。いずれも愛宕山大権現の神名である。この軻遇突智命は火の神であったために、産まれた時にその炎で母(イザナミ)の身体を焼き、死なせてしまった。つまり仇(あだ)をなした(害を与える意)わけである。この神話により愛宕とは「仇なす子」から由来したと考えられている(「あだなすこ」→「あたこ」→「あたご」)。中世後期より火防(ひぶ)せの神として崇められて今日に至っている。
愛宕山大権現の本地(おおもとの姿)は将軍地蔵とされ、馬に乗る武将の姿をしている。
この将軍地蔵は役小角(えんのおづぬ)が修法をした時に感得したという説や、戦国時代に戦場での争いの中で、敵味方ともに犠牲者の成仏を願ったことから地蔵菩薩が戦場に救済のために現れたという説がある。戦場は修羅の世界なので、争いに心を奪われてしまった兵士たちの魂に声が届くように、地蔵菩薩は鎧の兵士の姿で長い錫杖を持ち白馬に乗って現れたとされる。そして、争いに染まって聞き分けのない戦場の犠牲者である兵士の魂にはときに大変荒々しい態度で争いの心を手放すように迫り、仏の道に導く。穏やかな救いでは救うことのできない兵士の魂を将軍地蔵菩薩は救うことができる。片方の陣で将軍地蔵を祀ると敵方の怨念を消し、犠牲者による障りもなく自然と勝ち戦になったと思われる。戦国時代には明智光秀が本能寺の変の前に迷いを断ち切るために参拝したのも京都の愛宕山大権現であったし、上杉家の執政であった直江(なおえ)兼続(かねつぐ)が兜につけた愛の字は愛宕山大権現の愛であった(諸説あり)。いずれも戦乱の世で安穏を願った愛宕山大権現への信仰がうかがえる。
寛延二年(1749)の『村翁夜話集』に以下の記述あり。
小利木町白雲山長徳寺ノ愛宕大権現ハ山城国愛宕郡白雲山長徳寺ヨリ勧請
免許状如左
今度貴坊境内へ當所本社愛宕大権現勧請被致度之旨神妙之至ニ存候依之此度衆徒中評義之上當寺内道場ニ代々令秘蔵御正体貴僧へ令寄附候左有上ハ真俗之神事諸事準本山之様式大事ニ執行可被致事衆評之旨依而執達如件
慶長十四己酉八月十二日 山城国愛宕郡白雲山長徳寺
長床坊
正覚院
播磨国飾東郡
不動院 雄誉老
其後元和三六月長徳寺境内へ移今ニ安置
これにより、不動院の雄誉が愛宕山大権現は慶長十四年八月(1609)に山城国愛宕郡白雲山長徳寺より勧請したものであることがわかる。この時点で不動院は惣社地内にある。またこの年は姫路城完成の年でもある。池田輝政公が熱心な愛宕信仰者であったことを考え合わせると城の完成にあたって信仰する愛宕山大権現を城域内に勧請させた可能性も浮かび上がる。
ところで、不動院境内を調査したところ元和二年(1616)建立の宥誉(雄誉)阿闍梨の宝篋印塔が発見された。
※刻文は以下の通り。網掛けは未確定の文字。■は文字が欠けている部分。
右所建寳篋印塔者
依老師宥誉阿闍梨
窓国濟林月山妙光
梅窓清春各這箇深
福改之品塵空為使
登不生心閣也
元和二辛亥五■■五
造者當寺七葉
菩薩■■阿闍梨
敬白
宥誉(雄誉)阿闍梨は不動院六葉(世)であることが不動院の位牌から明らかであるので、七葉にあたる阿闍梨が先代の住職と禅宗の僧侶三名の供養のためにこの宝篋印塔を元和二年(1616)に建立したことになる。しかもこの時期には輝政公の菩提寺である国清寺(妙心寺派)が未だこの地に存在する。これらの禅僧は国清寺にゆかりのある僧侶ではなかろうか。詳細は未だ明らかではないが、少なくとも不動院の宥誉(雄誉)阿闍梨と池田家に何らかの関係があったと考えられる。
その後、愛宕山大権現は元和三年(1617)六月に長徳寺(国清寺の後にこの地に建立された寺、昭和二年(1927)の『飾磨郡誌』によると、長徳寺は愛宕山大権現の別当)に安置され今に至る。なお、元和三年三月に池田光政公が鳥取へ転封となっているので、新城主本多忠政公による城域整理に伴いこの地に移ったのであろう。